Sunday, February 05, 2017

大江健三郎を読み直す(73)日本のプレモダンとポストモダン

大江健三郎『人生の習慣』(岩波書店、1992年)
1987年から91年にかけて行われた11回の講演録である。
冒頭の「信仰を持たない者の祈り」は、同じことを何度も繰り返してきたことだが、宗教者や信仰を持つものではない大江自身がいかにして祈りを実践し、深めていくかを問い続けてきた中間報告である。祈りや癒しや魂のことに、この後も大江はこだわり続ける。終生のテーマの一つである。
「日本の知識人」はベルギー、「ポストモダンの前、われわれはモダンだったのか?」はアメリカ・カリフォルニア、「なぜフランクフルトに来たか?」はドイツでの講演であり、それぞれの地での大江の読者に向けられたものだが、同時に日本文化の紹介も兼ね、また同時に日本の相対化を試みる作業でもある。
1990年の講演「ポストモダンの前、われわれはモダンだったのか?」において、大嘗祭を迎えようという時期の、プレモダンの日本の危機を論じている。
「天皇制の、憲法や皇室典範を自由に超える暗喩としての力を実体化させる試みは、中心の権力にとって、いわば最後の切札ですが、そうすることは天皇制自体を現実的な危機に直面させることでもあります。日本の近代は、中心の権力に対して、天皇制の暗喩の実体化ついて慎重であるよう教育する時代でもありました。その教育は民衆に大きい犠牲をはらわせる経験となりましたが、天皇制の暗喩は巨大なまま生き延びているのです。ポストモダンの繁栄の表層の真床襲衾をとりのぞいた後、それまで物忌みしていたどのような日本と日本人の実体があらわれるか? それを警戒して見張りながら生きるのが、漱石、大岡を見送った後の、日本の知識人の運命であるように思われます。」
それから27年、天皇による生前譲位要求に右往左往する日本を、大江はどう見ているだろうか。